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執筆者の写真Yuki Yoshio

演奏の話

私は学生時代からコンクールに数多く挑戦してきた自覚がある。人より多いと思う。

海外のコンクールや、コロナ禍にはオンラインコンクール等にも挑戦したが、その大半…というか、ほぼ全てと言っていいだろう、落選してきている。その中でも演奏の仕上がりと私の将来を信じて入賞、入線させて頂いたコンクールやオーディションには感謝してもしきれない気持ちである。


つい最近もpulseが…という記事をしばらく書いていたが、これもコンクールのために準備していた。盛大な風邪で完全にコンディションを崩し、今回は文字通り泣く泣く出場は諦めた。もう少しで30代という年齢層、そろそろ受けられるコンクールというものがかなり減ってくる歳でもあるのだ。


ある意味そろそろ分別を付けよ、という世間からのメッセージなのではないかな、と、結構深刻に悩むこともある。私は確実に音楽家として、演奏者として生活していることを幸せと感じているが、同時に本当にこのキャリア形成の仕方が正しかったのか、ということに対する不安感を払拭することができずにいる。


現代日本の中で生きる大半の音楽家というのは常にものすごく大きな矛盾を抱えながら生活をしていると思う。

確実に言えることだが、芸術はあくまでもその表現者が幸せの最先端にいなければ本質的に成り立たないのだ。そういった意味で、衰退の方向性を感じずにいられないこの日本社会のなかで音楽の活動をすることというのは、ちゃんちゃらおかしい話の様にも感じているのだ。

しかし、そのナンセンスとしか形容できないこの「状況」と「職業選択」の矛盾が生み出している芸術観というものは確実に存在していて、我々演奏家が求められる救いというのはその一点の部分だけなんじゃないかなと常々考えるのだ。


とかまあ、そんなことばっかり考えているのでやっぱり私は全然仕事人じゃないんだろうな、という風に改めて思ってしまったのだ。興味のあることしか全然できていないよね、という風に思う。興味のあることすらその実力を世に証明しきれないこともめちゃくちゃもどかしいわけなのだが。


少なくとも私の考えとして、音楽をはじめとする諸芸術というものは「様式の踏襲」というところを重視しながらも自らの感性を反映させずに再現することは不可能だと思っている。別に「引き出す」なんていう作為的なやり方をしなくともにじみでてしまうものなのだ。

でもどうなんだろう。「踏襲」という言葉を使えばあたかも伝統的なことをちゃんと継承している様に見えるかもしれないが、それすらも結局エゴや思い込みの塊でしかない可能性も十分あるんだよな、そこの部分を間違えない様にするために、自らの欲のみで生きずに、バランスの取れた感性を磨き続け、常に勤勉に鍛錬し勉強していかなければならないのだろうと思う。一生ちゃんとそういうの続けたいなと思う。今だって別に毎日それが出来ているとはとてもじゃないが言えないけれど、それを目指すことを諦める生き方はしたくないな、と。


そういう積み重ねがきっと私の演奏を作っている。ってまあ。そんなまだ認められている演奏は全然ありませんけどね。。。

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