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執筆者の写真Yuki Yoshio

正月


年末年始は練習の時間を広くとったので今日を正月休みの日とした。とはいえ初詣のようなイベントをこなしたわけでもなく、ただ自分の練習をお休みしただけの日だった。


必要があって2024年のアンドラのセミファイナルを観ていた。みんなメチャクチャ上手いな、と素直に思った。数年前からそういう感覚で見ていたかった。

もう少し若かった頃の自分は、遠い未来にはやがて世界で戦う彼らと同じような演奏のみならず、それ以上のことが出来ると意味も根拠もなく傲慢になっていたことを思い出す。もちろん自分なりには色々やっていたつもりだろうが、それでもやはりまだまだ足りていないから今の状態になっている。過去の同年代にすら相手にされないような有様になっていないだろうか、とヒヤヒヤしてしまう。


4月下旬に、3年振りくらいに海外のコンクールに挑戦する。オンラインのコンクールが3年前なので、現地に赴いて海外コンクールに参加するのは5,6年振りだろうか。

先に必要と書いたのはそのコンクールの予選通過者のセッティングや演奏上の特徴等を自分なりの言葉に残しておきたく、ライブストリーミングのアーカイブをずっとみていたのだった。

現実的に国際コンクールに挑戦する、という姿勢は以前よりは付くように多少はなった…と思う…が、先にも書いた通り皆本当に凄い。本当に自分など全く相手にされないと思うくらいにすごいし、現状の自分の状態からは1位など程遠いとも思ってしまった。絶望とまではいかないが、そこそこ今段階で焦っている…。



コンクールに通ることが全てじゃない、という人もいる。全くその通りだ。コンクールの成績に頼らなくとも、音楽で活躍している人は本当にたくさんいる。

音楽、あるいはクラシック音楽のフィールドで戦っていく上で、きっと最早コンクールなど必須のものではない、と言い切っても差し支えないはずの時代だ。

ただ、私はそれでも、コンクールに挑戦できる今の年頃だけでも、コンクールで通ることが全てだ、と敢えて言いたい。

コンクールの企画者がコンクールの開催を通じて行うことに、新たな才能の発掘と、文化土壌の発展と向上の2つの目的がある、ことが多い。あとはお金稼ぎたいというビジネスコンクール…というのが3つ目になるだろうか。

逆に自分自身はこの社会的な流れから、コンクールの参加にあたって大きく共感することがあって、

それは、コンクールの開催によってレベルを上げて欲しい、という主催の願いと、

自分自身がコンクールの参加によって飛躍的にレベルを上げたい、という目的が完全に一致するのだ。

自分はなんのために音楽をやっているのだろう?と考える度に、私はいつも自己実現というワードが脳裏に浮かぶ。自分のなりたい姿の中に、とんでもなく楽器の上手い自分がいて、そういう自分になるためにコンクールという場所は本当にありがたい場所なのだ。

ただ、これがあれば別に入賞などいらない、というのも変な話なんじゃないかなとも思う。

やっぱり人間なのだから承認されたい気持ちは少なからず誰でもあるだろうし、きっと参加者全員が1位を狙って来ているはずだ。そうじゃなければ不健全まであるだろう。

なので敢えてオープンに、しっかり1位をねらえるような準備をして参加することをこの日記に書き残しておきたい。

そのために、毎日出来ることを行う、練習時間を最大化する、音楽を好きでい続ける、メンタルのバランスを整えることに注力する(ブログ書いてないで寝ろ)、そして何よりも、1位として相応しい人間とは何か、の答えを自分なりに、現実的に探したい。

私は2021年にナゴヤサクソフォンコンクールという場所でありがたくも1位を頂いたが、あの時の審査員のみなさまが付けてくださった点数どおりの活躍が今もできているのだろうか、と時々思い返してしまう。

本当はそんなのではダメなのだ。あのナゴヤで1位取った吉尾、本当にスゲー!ってなるような演奏をいつでも、どこでも、何度でもし続けなければならない。楽器を持ち、吹き続ける間はずっとだ。

そして楽器を辞めた時にはもうそんなありがたいタイトルでも責任をもって全部捨て、次の世代に活躍の場を渡せるように、そしてそういう場所をたくさん作って、守って、残していけるように…プレイヤーとして生きていくのならば、そういうプレイヤーにならなきゃダメだよな、と思う。


ああ、早く寝て明日早起きして、練習の内容考えて朝から楽器を吹こう。

ふさわしい人になれるように、自分のやるべきことをひとつひとつ向き合っていきたい。

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