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執筆者の写真Yuki Yoshio

午前中に高校生をレッスン。


音楽の勉強というものは、文字通り雲を掴むような考え方や事象に溢れていて、技術や音楽性といったものについて検討するのはとても難しい。

真っ当な判断が出来るようになるまでも相当な時間が必要だ。

もちろん、本質的な芸術活動において、そのような真っ当な判断が必要不可欠かと言えばそうではない。あくまで自由に取り組んでいけば良いのだが…。

しかし、今日の芸術は社会を相手にする事が多い。

芸術の「快・不快」とは別の次元で、土俵にのるために必要な最低限の力というものが存在することを意味していると私は考えている。


…と、つらつら書いていると、職業演奏家としての自分が、「いかにして芸術というものを考えていくか、を伝える」という事にレッスン時意識が向いていることに気づく。

でも日本だと難しいのかなとも結構思ったりする。少なくとも現状のクラシック音楽演奏の世界は再現至上主義のような演奏が主流で、マナーの尊重が目的になっているんじゃないかなと多くの演奏に感じることが多い。

マナーの尊重と創造性を真に感じられる演奏ってそうそう無いのではないかな、と思う。もちろん自分だって全然出来ていないが…。。


例えば現状日本のトップを走ったプレイヤーに憧れる若手は多いが、それも結局トップがいくら創造性を発揮しても、そのコピーに終始してしまえばそのどこに価値を見い出せば良いのか、少なくとも私には判断をつけることが出来ない。

もちろん、大前提は芸術において正解の形は無く、全ての人が自由に表現をする権利を有している。だから思い通りに、憧れがあるなら憧れのままに演奏することも良い。

だが多分真に広い意味で、次の世代のクラシック音楽家のために演奏の場所を残すこと、あるいは次の世代がクラシック音楽を楽しむ場所を残すことを考えると、たぶん創造のプロセスは必ず必要なんじゃないか、と予想している。

そう考えると私がやるべき事は、やはり今までに見つかっていないような音楽表現の世界をみつけること、その場を作り続けること、真の意味で芸術を考えることのきっかけを作れるよう努力していくことなのではないかなと思う。


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