真っ黒になる楽譜・書き込みの是非について
- Yuki Yoshio
- 11月7日
- 読了時間: 2分

家の楽譜を整理しなおした。もちろんいろんな楽譜があるわけなのだが、それで思うことがあった。写真は2~3年前のホグワーツのやつ。
一時期、吹奏楽部の生徒たちの楽譜が真っ黒になってもはやなんだか分からない、みたいな批判の風潮があった。で、それを割と事あるごとに思い出したりしていて、どんなもんなんだろうと考えてみているのだが、現段階でその一つの答えが自分の中で出てきたのでこの記事に書いてみようと思う。
結論。好きにすりゃええ。
でも自分の過去にさらっていた楽譜見てみると、高校生くらいまでは特に真っ黒焦げになったような楽譜ばかりだと思う。精神的なメッセージが書かれていたりとか、演奏上のコンセプトが事細かに書かれていた。
逆に音大時代になるとさらう楽曲が多いほど書き込みも少なく…まあじゃあ実際にさらったり触れている時間の問題なのか?って事なのかというと、、いや、そうだと思う。
中高生の時代っていくら頑張っても技術の身に付きまでに時間がかかりがちなので、そのどうにかしたい思いが演奏法の思考よりも「書く」って方向に向くのは結構自然な事なんじゃないかなと思う。自分なりの、あるいは彼らなりの一生懸命っていうのがそういうところにも出ていると思う。
逆に大人になれば、積み上げてきたものがあるから別に多くを書かなくともどうにかできることは増えてくるよな、と思う。
だからこそ大人になった立場で、若い奏者たちの演奏上の工夫をとやかくいうのはただただ野暮なだけだと思うのだ。
もはやそこには「読めること」すら必要ないとも思う。だって本人たち絶対内容覚えていると思うし。笑
今の自分の書き込みってどんな感じかというと…。

まあそこそこ書いてるし書いてないか(?)
拍の線、この楽譜はヴィオラの楽譜でハ音記号なので、間違えたくないところでは新しく音名を書き直し。音域の変更、ブレスマーク、次のページの音を先取り…。そんなところだろうか。結構こういうのって奏者ごとに色が出そうだ。(書いている色のことじゃなくて思考の琴音)


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